▲瑠璃経典▼

Rury scriptures

"瑠璃奴隷"は形態としてはバンドで有るが、その存在は宗教にも近い。

 

以下より、瑠璃経典の一部を明記する。

 

瑠璃教

所謂一般的な宗教とは異なり、その教えは全て経典という名の音楽という形にて布教される。

この場合 楽曲制作者の澁谷瑠璃が”教祖”という事になり、信者は"奴隷"の名で呼ばれる。

瑠璃教の教え(楽曲)は、その存在をよく知らない者にとっては、恐怖を感じる者も少なくない。

だかしかし恐ろしい、と言って目を瞑って拒絶して仕舞う事は、あまりにも簡単である。

現世の無常から目を背けず、己の現実に真っ向から対峙し、目を見開きて向き合いし恐怖は、いずれ快感へと変貌を遂げるであろう。

瑠璃教の教えの中には、生と死、憎悪と愛情、美しさと醜さ、絶望と希望が詰まっている。

 

奴隷の定義

瑠璃奴隷に於いての"奴隷"とは、所謂一般的な奴隷の意味と異なる。

瑠璃教の布教活動を行う瑠璃奴隷の信者、という存在定義である。

その為一般的な奴隷に見られる様な 一切の強制的肉体労働も無ければ、不当な金銭・財産等の搾取も無いものとする。

※但し奴隷側からの労働の申し出、物品の提供が有れば、これを拒否しないものとする。

奴隷は 瑠璃奴隷に対して祈りの力(声援)を送り続ける代わりに、瑠璃奴隷はその対価として 念仏(音楽)と経典(歌詞)で浄土(束の間の別世界)に浸る時を与える。

対価を受け取る方法としては、澁谷瑠璃の念仏唱えし姿を観る(ライブを観る事)か、CDや動画配信視聴にて奴隷自身が経典を唱える方法が挙げられる。

対価を受け取った奴隷は、早い者で一回、遅い者でも約四回程で解脱出来るとされている。

 

奴隷になるには

以下の三項目のいずれかを満たしていれば、誰でも奴隷を名乗る事が許される。

一、瑠璃奴隷又は澁谷瑠璃の教え(音楽)を愛する者

二、澁谷瑠璃の宗教画(絵画作品)を愛する者

三、瑠璃奴隷又は澁谷瑠璃の念仏唱えし姿(ライブ)を一度でも拝んだ経験がある者

奴隷は、自らいつでも奴隷を名乗り出る事が出来る。

年齢、国籍、性別、役職、容姿等一切関係無く、奴隷は随時募っている。

 

奴隷との関係性

先にも記述した通り、奴隷とはつまり瑠璃奴隷の信者である事が前提である。

その為教祖・澁谷瑠璃にとっては、奴隷は無くてはならない非常に大切な存在である。

だからこそ不当な命令や搾取、御布施の要求をする事は無く、常に奴隷達を愛し、祈りながら詠う。

澁谷瑠璃、そして瑠璃奴隷が布教活動を維持出来るのも、奴隷が居てこそ成り立つものである。

※但し 敢えて不当な扱いや無理な要求を希望する奴隷に対しては、その願いを叶えるものとする。

 

 

貴方はもう音楽の奴隷 瑠璃奴隷

瑠璃經典

瑠璃奴隸ハ形トセバ樂團ニ有レド其ノ色ハ宗教ニモ有ル

所謂竝ヤウナル集キトハ異ナリ其ノ教ヘハ宛ラ經典トイフ名ノ管弦トイフ形ニ布教サル 

此ノツイデ管弦ノ親ナル瑠璃ガ唯一ノ教祖ニ信者ハ奴隸ノ名ニ呼バル

瑠璃教ノ教ヘハ其ノ色ヨク知ラヌ者ニトラバ恐怖ヲ感ズル者モ少ナカラズ

サレド畏キト言ヒテ目ヲ瞑リテ拒絶シ仕舞フ事ハイト易シ

世ノ無常ヨリ目ヲ背ケズ己ノゲニ眞正面ヨリ對峙シ目開ケ向キ合ヒシ畏サハ果テハ極樂淨土ヘト樣ヲ變ヘム

此ノ世ノ全テノ色ハ等シク陰ト陽ノ二極ニ成リ立テリ

瑠璃ノ教ヘハ生クル事ニ死ヌル事憎惡ニ志麗シサニ醜サ絶望ニアラマシ事詰マレリ

世ノ苦難モ時ニテ要ル色ト成リ得

果報ヲ實感スベケレバ

日頃心ノ奧ニ僅カナル哀レガリヲ抱ヘ給ベカラム

己ノ力ニ考フル事ヲ忘レヌ料ニ

カクテ遠キ天ヨリ此ノ地ニ降リ立チシ驗シヲ忘レヌ料ニ

己ノ生マルル在リシ思ヒ出無シト泥ム者ハ瑠璃ノ管弦聽キ續クル事ヲ以チテ第三ノ眼開カル

其レヲ以チテ天ノ思ヒ出ガヤヲラ蘇ラム

何故君ハ此ノ時此ノカタヲ選ビテ生マレ來タリヤ

ソハ瑠璃ノ生キタルホドト同ジ世ヲ生クル料 

ソハ瑠璃生ミ出ダス凡ユル作ニ觸ルル料

奴隸共ガ祈リノ力遣リ續ケバ瑠璃ハ念佛ト經典ニ淨土ニ滲ルホドヲ與フ

瑠璃ガ念佛ヲ唱フル樣ヲ觀ルヤ自ラ經典ヲ唱フ可シ

疾キ者ニ露ノ間遲キ者ニモ約四度際ニ解脱ストサレタリ

此ノ天下ニ思ヒ絶エヲ感ゼシ驗シノ無キ者ニアフトモ疑似見聞ス可クカクテ至上ノ幸福ヲ見聞セル事ノ無キ者ニアフトモ味ハフ可シ

思フ者抱キ締メツツ殺スベキ成リ

止ム事無ク形作リツツモ損ナヒヌ

瑠璃ノ管弦ヲ聽カバ絶エテ違フ事ヲ一度ニ感ズ

言ハバ其ノ露ノ間許リ五次元ノホドニ旅立ツ可シ

同ジ時ニ有リ得ヌモノ同時ニアルホド

ソハホドノ無キ天下

初メ驚歎スルヤモ知レネド定メテ腑ニ落ツルホドノ來ル成ラム

其レヲ以チテ孰レハ己ノ使命ヲモ思ヒ出ス成ラム

雙無キ奴隸ニテノ使命ヲ

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